こんにちは、春日井コワーキングスペースRoom8オーナーの鶴田です!
最近は「事業にAIを活かしたいけど、どこから手をつければいいか分からない」って人の相談に乗ることが増えてきて、名古屋・春日井エリアを中心に、AI活用の伴走支援なんかもやってます。
さて、今回のテーマは「希望」。
…って言った瞬間、ちょっとポエミーに聞こえた?
でもね、これが結構キレイごとじゃ済まされない話なんよ。
例えばさ、
「こういうビジネスって、どう思いますか?」
「これってやるべきですか?」
みたいな質問、よくされるんだけど──ごめん、それ、僕の役割じゃない。
いや、手法のアドバイスはできるよ?
マーケティングとか、補助金とか、集客とか、使えるツールとか。
でも、「やるべきかどうか」って、その人が選ばなきゃいけない問いなんだ。
希望って、外から与えられるもんじゃない。
自分で「選んだ」ときに初めて生まれるんだよ。
この記事では、
「虚構=フィクション」がすべてだと知った上で、
それでも希望を選ぶという、人間らしさ全開の生き方について語っていくよ。
覚悟はいい?そろそろ本題、いってみよう。
虚構に縛られて動けない人たち

「失敗しちゃいけない」
「ちゃんと成功しなきゃ」
「これって“やるべき”ですか?」
──こういう質問、よくされるんだけど、正直言って、もうその時点で詰んでる。
なぜなら、それ、他人の虚構に支配されてるから。
たとえば、「成功」ってなに?
売上? フォロワー数? メディア露出?
それ、誰かが勝手に定義した「成功像」だよね。
本人も気づかずに、
「“こうであるべき”という物語」にがっつり洗脳されてるわけ。
もはや宗教。しかも自覚のない信者。
起業したい、って言いながら
「資格取ってからじゃないと…」
「周りの反応が気になって…」
「ちゃんと準備してから…」
いや、わかるよ。不安だし怖いもんな。
でもさ、その“不安”って、どこの誰が植え付けたの?
「こうすれば安心だよ」
「これが正しいやり方だよ」
──そう言ってくる“誰かの声”が、君の中で勝手に再生されてるだけなんだよね。
しかも、その“誰か”って、リアルな誰かですらないことが多い。
ネットで拾った断片とか、親の昔話とか、過去の自分の幻想とか。
要するに、攻略サイト見ながらプレイしてるのに、 そのサイトが10年前のバージョンだったみたいなもん。
しかもそのゲーム、いまバージョン12.3.6になってるのにさ。
本来、虚構って「使う」もんなんだよ。
自分の物語を前に進めるために、創造的にね。
でも多くの人は、虚構に「使われて」しまってる。
その最大の問題点は何かって?
自分で“選ぶ”という感覚がマヒすること。
「こうするべきだからやる」「みんながそうしてるからやる」
──そうやって、選択するフリして、選ばされてるだけ。
そして皮肉なことに、そういう人ほど「希望が持てない」と嘆く。
でもそれは当然なんよ。
希望って、「自分が選んだ虚構」からしか生まれないもんだから。
つまり──
自分の足で立てない人って、“他人のフィクション”に縛られてるだけなんだよ。
僕が差し出せるのは「こういうやり方もあるよ」という構造だけ
よく聞かれる。
「こういうビジネスって、アリですかね?」
「このやり方って正解ですか?」
「どうすれば売れると思いますか?」
──そのたびに思う。
僕は神じゃないし、あなたの人生の設計者でもない。
僕ができるのは、「こういうやり方もあるよ」「この仕組みでうまくいってる例はあるよ」って“構造”を差し出すことだけ。
でも、「やるかどうか」「選ぶかどうか」は、本人が決めなきゃ意味がない。
それなのに多くの人が、“自分の意思で選ぶこと”をどこかで放棄してる。
そして、そんな人の耳に心地よく刺さるのが──
「この方法でやれば売れますよ」という言葉。
でもこのセリフ、よく考えるとかなりヤバい。
まず、“売れる”って、そんなに尊いことなのか?
それは単に「何かが買われた」という現象にすぎない。
価値でもなければ、幸せの保証でもない。
それを「正解」だと思い込むから、
中身を無視して“売れるかどうか”だけで手段を選ぶようになる。
でもさ、“売れる方法”って、そもそも“目的”を前提にしないと意味がないんだよ。
本来は、「どう生きたいか」「何を届けたいか」「誰といたいか」っていう物語があって、
それを実現するために“方法”があるべきなのに、
なぜか「方法だけ先に欲しい」って人が多すぎる。
結果、価値観がまるで違う人のやり方を真似して、
心をすり減らしながら「これで合ってるはず」って自分を納得させてる。
で、どこかのタイミングで気づく。
「あれ?俺、なんでこれやってんだっけ?」
その頃には、自分の感情も価値観も見失ってる。
“売れる方法”に振り回された末に、自分の物語がどこにも残ってない。
本当は、苦手でもいいんだよ。
上手くできなくても、意味があれば走れる。
でも“意味があるらしいから”とか“みんなが信じてるから”って理由でやると、
たとえ成果が出ても、どこか虚しい。
それ、自分が選んだ虚構じゃないから。
僕なんて年間360日くらい働いてるけど、ツラいと思ったことはない。
(体調悪い日は普通にツラいけどね。笑)
だって、“好きなご飯を毎日食べてる”だけなんだよ。
そりゃ幸せでしょ。
でもこれが、嫌いな食べ物を「栄養があるから」とか「成功者はみんな食べてるから」って言われて毎日出されたら──
間違いなく地獄だよね。
それと同じ。
他人の物語を「正解」だと思い込んだ瞬間、自分の人生はどこかへ消える。
だから僕が渡せるのは、“正解”じゃなくて“構造”。
進むのは自分。選ぶのも自分。
それを引き受けたときにだけ、
“希望”ってやつが、自分の物語として立ち上がるんだよ。
希望とは、“選ぶ”ことに伴う責任と楽しさを引き受けること

「希望」って聞くと、多くの人は“明るい未来”とか“いい結果”を想像する。
でも僕に言わせれば、希望ってのは「自分で選んだとき」にだけ生まれる副産物だ。
「これが正解っぽいから」「うまくいきそうだから」って選んだ道に、希望はない。
それはただの“納得”であって、“物語”じゃない。
本当の希望ってのは、「やる」と決めたその瞬間に生まれる。
しかも、うまくいくか分からないまま、それでも“選ぶ”という行為そのものに宿るんだよ。
逆に、自分で選んでない道は、どれだけキラキラしてても空虚になる。
「親に言われたから」
「みんながやってるから」
「そうすれば成功するらしいから」
──そんな理由で選んだ未来が、うまくいかなかったとき、人はこう言う。
「こんなはずじゃなかった」
でも、それを本当に“自分で”選んだの?
自分で選んでない道は、成功しても他人の手柄。
失敗すれば「誰のせい?」ってモヤモヤする。
そのどっちも、“自分の物語”じゃない。
だから、「これって自分に合ってますかね?」って相談されると、僕はいつも思う。
──知らんがな。
それ、「このごはんおいしいですかね?」って聞かれてるのと一緒なんよ。
お前の味覚と俺の味覚は違う。
好きかどうかなんて、食ってみなきゃ分からん。
人生もビジネスも、食レポ読んでるだけじゃ味は分からんのよ。
やる前から「自分に合ってるかどうか」を気にしてても、
一生“選ぶ”ことにはたどり着けない。
自分で食ってみて、「うまっ」ってなるか、
「思ってたのと違ったわ」ってなるか、
どっちに転んでも、それは“自分で体験したこと”だから意味がある。
希望ってのは、その“食ってみる勇気”の中に生まれる。
「自分の味覚で判断して、自分で選んだ」
──その積み重ねだけが、自分の人生を“自分のもの”に変えていく。
だから、「どうすればいいですか?」という問いには、僕は答えない。
代わりにこう言う。
「それ、食べてみたいと思った? じゃあ、一回かじってみなよ」って。
で、その味を自分で判断する覚悟があるなら、
その時点で、もう“希望”は生まれてる。
虚構を選ぶ。その時点で、もうそれは“リアル”になる
このシリーズをここまで読んでくれてるあなたは、もう気づいてると思う。
僕らは、いつだって“虚構の中”で生きてる。
正解なんて、どこにもない。
意味なんて、最初から与えられてない。
誰かが作ったフィクションを、それっぽく信じて、毎日を回してる。
でも、それが悪いわけじゃない。
むしろ逆。
僕らは虚構なしには、生きていけない。
宗教、ビジョン、肩書き、理念、会社、家族、友情、SNSのプロフィール──
どれもこれも、“物語”として自分を支えてくれるものばかりだ。
大事なのは、その虚構を「自分で選んだか?」ってこと。
誰かに与えられた物語を「これが現実なんだ」と信じてしまったら、
それはただの“借り物の人生”になる。
でも、「意味がないことは分かってる。それでも、これを選ぶ」と腹を括った瞬間──
その虚構は、あなたにとっての“リアル”になる。
たとえば、僕がRoom8というコワーキングスペースを始めたとき、
最初はただの空き物件だった。何の意味もなかった。
でも「ここを、誰かの物語が始まる場所にする」と決めたとき、
意味が生まれた。物語が動き出した。
いまやそこに人が集まり、出会いが生まれ、事業が始まり、未来が変わっていく。
つまり、虚構が“現実を上書きした”瞬間が、確かにある。
だから僕は、フィクションでいいと思ってる。
むしろ、フィクションだからこそ、そこに自分の意志を重ねられる。
意味がないからこそ、意味をつくれる。
そして選んだその瞬間に、もうそれは“リアル”になる。
他人にどう思われようが関係ない。
自分で「これが自分の物語だ」と言えたなら、それで十分なんだよ。
まとめ:虚構を生きるとは、自分の物語を選び続けること
この世界は、もともと意味なんて持っていない。
「正解」も「価値」も「成功」も、全部、人が作ったフィクションだ。
でも、それを嘆く必要はない。
なぜなら、僕たちには“選ぶ力”がある。
誰かの虚構を盲目的に信じて壊れていくのではなく、
自分で物語を選び、自分の責任で進むこと。
その覚悟のある選択にだけ、“希望”は宿る。
虚構を信じるな、なんて話じゃない。
むしろ逆だ。
虚構を使え。踊れ。自分で物語を選び取れ。
そうやって生きる人間だけが、
この“意味なき世界”に、自分だけのリアルを創っていける。
次回は、SNSやAIという現代の舞台装置を使いながら、
どうやって“虚構を自分の武器に変えるか?”という話をしていこうと思う。
虚構に振り回されるな。踊るように使いこなせ。
いよいよシリーズ最終回、お楽しみに。