こんにちは、春日井コワーキングスペースRoom8オーナーの鶴田です!
最近は、AIと一緒に「自分の物語をどう演出するか?」って相談が増えてきました。
SNSもAIも、虚構を“編集する道具”になってきたんですよね。
高級時計、高級バッグ、高級車、地位、年収、恋愛、結婚、フォロワー数──
それを持てば、自分の価値が上がると思った。
でも実際は、何も変わらなかった。
誰も拍手してくれないし、不安も消えない。
その“意味あるっぽいもの”を信じて、
必死で手に入れて、疲れて、そして空っぽになる。
それって、全部「誰かが作った物語」を生きてるからじゃない?
意味があると信じた瞬間、それは呪いになる。
「持ってない自分はダメだ」って思うからだ。
でも──全部、虚構だ。
地位も、年収も、愛も、承認欲求も。
もともとそこに意味なんて、なかった。
だったら、
自分で意味を選んでいいんじゃないか?
自分の好きな物語に、全力で飛び込んだ方が、よっぽど人生は面白いんじゃないか?
今回はそんな話。
虚構と分かっていても、なお信じたくなる“物語”を、
どう踊るように生きるか──という話です。
他人の物語を生きていないか?──社会に植え付けられた虚構の正体

「いい大学に入って、安定した企業に就職して、結婚して、家を買って…」
こんな“テンプレ人生”を、どこかで正しいと思い込んでる人が多い。
だけど、それって誰が決めた物語なのか、考えたことある?
就職=ゴール、年収1000万=勝ち組、結婚=幸せ、子ども=成功の証。
こういう“分かりやすい指標”は、社会が勝手に作ったフィクションだ。
しかも、昭和の頃に書かれた古びた脚本でしかない。
もちろん、そこに本気で乗れる人なら、それでいい。
フィクションだと分かったうえで、それが好きならOK。
でも──問題は、「そう生きなきゃダメだ」と思い込んでる人たちだ。
違和感があっても、疑問を感じても、
“みんなそうしてるから”という理由だけで、自分の人生を押し込めてしまう。
「正しい物語」の中で、“うまくできない自分”を責める。
「まだ結婚してない」「まだ家買ってない」「まだ子どもいない」
──それ、本当に“まだ”なの? それとも、そもそも“要らない”んじゃないの?
世の中に溢れる“正解っぽい人生”は、全部フィクション。
でもそのフィクションを、本物だと信じた瞬間、
人は「自分の物語」を捨てて、「他人の脚本」に乗っかってしまう。
僕たちの人生は、本来もっと自由なはずだ。
ルールも、脚本も、自分で書いていい。
でも世間が用意した“人生という台本”があまりにも巧妙で、
多くの人は、自分の言葉で語る前に、その物語に取り込まれてしまう。
気づいたときには、
“他人の脚本を忠実に演じてるだけの人生”が始まっている。
それで幸せならいい。でも、そうじゃないなら──
そろそろ台本、破り捨ててもいいんじゃない?
意味を信じた瞬間、それは呪いになる──価値ある“っぽい”人生の罠

「これを手に入れれば、きっと人生が変わる」
人はそうやって、“価値あるっぽい何か”を追い続ける。
高級時計とか、高級バッグとか、高級車とか。
年収、肩書き、SNSのフォロワー数、モテる恋人、学歴。
分かりやすく“すごそう”なものたち。
それを持てば、自分の評価が変わるはずだと信じて、
時間とお金と労力をかけて、必死で手に入れる。
だけど──手に入れても、世界はちっとも変わらない。
拍手もされないし、不安も消えない。
むしろ、「もっとすごい何か」が必要な気がしてくる。
ロレックスじゃ足りない? じゃあパテック? リシャール?
──その時点でもう、虚構に食われてる。
最初は「欲しい」だったのに、
いつの間にか「持ってない自分がダメ」になっている。
それが、意味を信じすぎた人間の末路だ。
意味なんて、本当は無い。
地位も、年収も、恋愛も、ブランドも──全部、社会が作った虚構だ。
なのに、「意味がある」と思った瞬間、
それを持たない自分は“未完成”で、“足りない”存在になってしまう。
そうやって、人は虚構に“価値”を預け、
自分の生き方すらコントロールされていく。
虚構そのものが悪いんじゃない。
「誰がその虚構を選んだのか?」が問題なんだ。
誰かが決めたストーリーに乗って、
その物語に自分を合わせようとするから、
苦しくなる。足りなくなる。いつまでも満たされない。
本来、虚構は“踊るため”のものだったはずなのに、
いつしか“縛るもの”になっている。
それが、「意味を信じた人間」に起こる悲劇だ。
フィクションでいい。でも、それは“自分が選んだ”ものであるべきだ

虚構が悪いわけじゃない。
むしろ、僕らは虚構がないと生きていけない。
愛も、信頼も、国家も、ビジョンも、ぜんぶフィクション。
問題は、それが“自分で選んだ虚構かどうか”だ。
誰かに用意された物語を生きていると、
どこかで「これでいいのか?」ってモヤモヤする。
でも、自分で選んだ物語なら、
たとえボロボロになっても、どこか楽しい。
それが“信じて生きた物語”なら、失敗しても後悔はしない。
うまくいかなかったとしても、「やらなきゃ良かった」にはならない。
だって、自分で選んだんだから。
僕にとってのそれは、Room8だった。
最初は誰もいなかったし、意味なんてなかった。
だけど「ここに意味を与える」と決めて、勝手に物語を始めた。
正直、リスクもあった。破産もチラついた(笑)
でもそれでも、「やって良かった」と思えるのは、
それが自分で選んだ虚構だからだ。
人は、フィクションを必要とする生き物だ。
だったら、どんなフィクションを信じるかは、自分で決めていい。
肩書きでも、サービスでも、ブランドでも、
「これが自分にとってしっくりくる」と思えるなら、
それは“演出”だ。演技でも嘘でもない。自分という物語の脚本だ。
虚構を“演じる”のは、ダサくない。
むしろ、何も演じてないふりをして、 世間の物語をそのままなぞってる方が、よっぽどダサい。
人生なんてどうせ全部フィクション。
だったら、自分が選んだ物語に本気で乗っかってみよう。
それが、「自分で意味を創る」ってことなんだ。
SNSとAI──虚構を“外に出して編集する”ツールたち

今や誰もが、自分というフィクションを演出している。
SNSはその舞台装置だ。
プロフィール、投稿、ストーリーズ──全部“演出”だ。
フォロワーがどう見てるか? どんな言葉がバズるか?
気にした時点で、もう「物語の主人公」じゃなくて、「演出家」なんだよね。
でも、それでいい。
本音も嘘も、演技も素も、ぜんぶ混ざってる。
それが今のリアルだ。
フィクションに振り回される時代から、 フィクションを使いこなす時代へ。
そして、AI。
こいつは“自分の物語を外在化する共犯者”だ。
ChatGPTに語らせた自分の理念、Midjourneyで描いた世界観、
言語化できなかった“自分っぽさ”を、AIは形にしてくれる。
「自分ってこういうキャラだよな」
「こういう物語を生きたいんだよな」
そんなふうに、AIはフィクションを言語化し、演出し、増幅してくれる。
つまり、虚構を編集するツールになったんだ。
昔は「自分をどう見せるか」なんて、内面の話だった。
でも今は違う。ツールがある。拡張できる。遊べる。
ただし、注意点もある。
踊らされるな。踊れ。
フォロワーの反応、バズりやすい言い回し、エモい画像。
それ“っぽい”だけで、自分の物語がどんどん遠ざかっていくこともある。
ツールは便利だけど、フィクションを選ぶのは自分だ。
AIやSNSは、演出装置でしかない。
使うか、使われるか。踊るか、踊らされるか。
それが、今の時代の自己物語の分かれ目だ。
フローと自由──ちょっとだけ背伸びした虚構が、人生を動かす

人が一番充実感を得られるのは、どんなときだろう?
チクセントミハイのフロー理論によれば、
それは「ちょっと背伸びすれば届きそうな目標」に向かって、
全力で取り組んでいるときだという。
退屈でもない。不安でもない。
ちょうどいい緊張感と没入感が重なったとき、
人は“今ここ”に完全に入り込んで、幸福すら感じる。
それが、フロー状態だ。
これ、僕にとってはまさにRoom8だった。
うまくいく保証なんてなかった。
むしろ、リスクしかなかった。
資金繰りに悩み、集客に悩み、孤独にも悩んだ。
でも、面白かった。
虚構だと分かってても、「この物語を生きてみたい」と思えた。
そう思って動いてるとき、
人は不思議と前向きになれる。工夫できる。粘れる。
そして気づいたら、ちょっとずつ“現実”が追いついてくる。
誰もいなかった場所に、人が集まり始め、物語が動き出す。
だから言いたい。
全部フィクションでいい。でも、そのフィクションに飛び込め。
どうせ意味なんてない。
でも、「好きな意味」に、本気で乗っかったら、人生は動く。
“しっかり意味付けされた人生”じゃなくていい。
“意味があると信じた物語を走る人生”こそ、僕はリアルだと思う。
安全圏から正解を探してるうちは、物語は始まらない。
「どうせ全部フィクションなんだから」
そう開き直ったときから、人生はフローに入る。
飛び込める虚構を選べ。
そして、それを踊るように、生きていけ。
意味なんて無い。でも、意味を踊れる
僕たちはもう、“虚構に気づかずに生きている時代”を終えた。
お金も、国家も、結婚も、キャリアも、SNSの肩書きも──
全部、フィクションだ。
それを信じて苦しんでる人がいる。
逆に、それを使いこなして人生を楽しんでる人もいる。
差はどこにあるのか?
“それが虚構だと知っているかどうか”
そして、
“その虚構を、自分で選んでいるかどうか”だ。
フィクションに振り回されるな。
自分が信じた物語を、生きろ。
誰かの正解じゃなくて、自分が「これ面白い」と思える物語に乗れ。
それが虚構だと分かっていても、いや、分かっているからこそ、
本気で踊れる。
意味なんて無い。
だけど、意味は“遊べる”。意味は“創れる”。意味は“踊れる”。
君たちはどう生きるか?
──そんな問いはもういらない。
君たちは、どんな物語を選ぶか?
それだけでいい。
虚構を知った君は、もう自由だ。
だったらあとは、好きな虚構に、思いっきり飛び込めばいい。