尾張vs長州プロレス 第1R 〜秩序のない幕末にドロップキック〜

活用史観で斜め上に創る尾張名古屋史(4)

みなさん、おはこんばんちは。東海ローカルの情報番組に違和感を覚えている友人屋です。地産地消をもてはやしながら、それを言うタレント(芸人)がご当地の人でないことに!!そりゃ、実力不足と言われれば引き下がりますが、誰がいるかを調べてみるとけっしてそうではないと思うのです。

【愛知出身】スピードワゴン、オアシス、天野ひろゆき…
【岐阜出身】清水ミチコ、松田大輔(東京ダイナマイト)、流れ星…
【三重出身】やついいちろう(エレキコミック)、加藤歩(ザブングル)…

それなりに成立しそうな気がしますが、いかがですか。なのに、他の地域のタレントさんに、貴重な枠を取られている。その点、関西はいいね。人(タレント)が成長するテレビ地産地消システムができています。

この流れで気になるのは、国宝犬山城の魅力を伝える役として、山口県出身(長州)の田村淳さんが任命されていること(犬山観光特使)。尾張藩の城が、長州者に乗っ取られた!すわ!陰謀か!と思っているのは私だけでしょうか。(念のため、田村淳さん、好きです。タレント名鑑、好物です)

暗躍長州の一転  ~第一次長州征伐への流れ~

ここでは、先の

活用史観で斜め上に創る尾張名古屋史(3)

であげさせていただいていた慶勝公の功績

●第一次長州征伐を最小限の犠牲でまとめた

について。

まずは第一次長州征伐に至るまでの流れをおさらい。

(1)長州藩、公卿(朝廷に仕える地位を持った人)に取り入り、幕府に攘夷を迫る
※天皇が上、幕府が下と見せつけて、権威を弱らせる狙い。

(2)幕府側、のらりくらりとかわす。
※武士のトップ(将軍)が式典直前に「お腹が痛いから出ない」とか言ってます…。

(3)時の孝明天皇(公武合体派)、長州の工作活動に気づき激怒!
会津藩、薩摩藩と図って、攘夷派の公卿と長州藩を京都から追放(八月十八日の政変)。

(4)長州反発!京都に攻め入るも会津・薩摩連合軍と激戦となり敗退!(禁門の変)
※京都御所に弾痕とかが今も残っています。

(5)京都を焼け野原にし、かつ御所に刃を向けた罪を問われ、長州征伐決定!

と、こんな感じ。

西国の諸藩より征伐軍が編成がされ、35藩から総勢15万人が動員されることになりました。
これだけの規模と陣容の総督にふさわしい人物として押されるのが、長州を討つ気マンマンの後の将軍徳川慶喜ではなく、我らが徳川慶勝公なのです。
初めは総督要請を断り続けた慶勝公ですが、全権を一任させてもらえるならと承諾しました。

先を見据えた差配と因縁の芽

ここぞとばかりに強さを見せたい幕府サイド。先に長州が起こした四カ国艦隊への攻撃の賠償を代わりに課せられている恨みつらみもあり、強硬派の歴々は大軍動員が叶ったことにウキウキでした。

そんな思いとは裏腹に、慶勝公は、政権は我らのもの…と漫然としている幕府にこれ以上の改革は無理…という現実を冷静に見据えていた模様。何より戦争が長引けば長引くほど国内の被害甚大に=外敵に付け込まれる…という先が見えてしまっています。とはいえ、自分の“庭”を焼かれた(2万8000戸が焼失)朝廷の顔も立てなければなりませんし、それなりに幕府のことも考えねばなりません。

そこで慶勝公は、当時は幕府寄りで武断派の薩摩藩より西郷隆盛を参謀に任命。長州と刃を交わすことなく謝罪させて事を収める方向で説得を開始します。朝廷に対しても穏便に済ませられるよう工作を図った証拠が見つかっています。

結果、圧倒的な武力を見せつけつつ、長州内を仕切っていた佐幕派を取り込み、武断派の家老3名の処刑のみで事を収め、総督の権限でさっさと撤兵してしまいました。

これに関しても慶勝公は三家老を生きたまま差し出すよう、血が流れないよう命じていましたが、前線との連携不足、長州内の内ゲバで家老の首がはねられ、参謀など11名も共に処刑されてしまった…といわれています。

それにしても、この慶勝公の寛大な措置。

討つ気マンマンだった徳川慶喜からは「芋に酔った(薩摩に騙された)」とこき下ろされ、内戦被害が少なかったことは歴史勝者の西郷隆盛の手柄にされ、長州からは14名を処罰した恨みを持たれることになるのです。

そしてその恨み、尾張に降りかかることになります。

次回も乞うご期待。

この記事を書いた人

友人屋

運だけを頼りにニッチを歩み、不惑の年へ突入。姓名判断の「大器晩成」のワードを信じ〝素振りを続けドラフトを待つ〟天性のオプティミスト。
デブ歴=年齢だったが、42歳で20kgのダイエットに成功。その方法を伝えるためブログサイトを展開している。